2014年6月30日月曜日

大人から子供へ

本日は大阪の夏の始まり、愛染祭。
少年2人が神社の石段で「おれたち以外の人間はすべて敵」
といった顔で周囲をにらみながらタバコを吹かしている。

おお、やんちゃでいいねえ、とシャッターチャンスをうかがっていると
突然大人4人が獲物をみつけた鷹のようにやってきて
「お前なにしとんねん?」と中学生を取り囲む。

「お前、高校生か?」
「いや、中学生です」

さっきまでの悪さはどこに。
少年は普通の少年に戻ってしまった。  (下寺町)

オールウェイズ 日本橋四丁目の風景

坊主頭に金魚、とても昭和だったけれども、足元はクロックス 

ムリ

「ムリだってぇぇ」「いけるよ!」
「ムリだってぇぇ」「いけるよ!」
「ムリだってぇぇ」「いけるよ!」
と何度も繰り返して



アニソンを歌い出した男と、合いの手を入れる男。
ムリだと言いながらも、声量はとても大きくムリじゃなかったのだろう。
ここは西のオタクの聖地 日本橋。

母子自転車

娘は後部座席でアイスオレ (難波)

風のいたずら

警察署の前のベンチでM字開脚で寝てる人。股間にあてられた手がとてもいい。


夢中になって何枚も撮っていると、帽子が落ちてビビる。 (上汐)



2014年6月27日金曜日

原因と結果


車が通ったら危なっかしいほどに道路に足を伸ばして寝てる人

原因と結果が非常にはっきりとしている。 (萩之茶屋)

2014年6月26日木曜日

どこから帰ってきたのか

4本の釣り竿と4枚のクリーニングされたシャツを持った男。
一体、何帰りなのだろうか。 (堂島)

2014年6月23日月曜日

フランスとは

フランスって何だろうと、振り返ってみる。
感じたことをつらつらと。


フランスは個人の国

地名が人の名前になる国。
社会の前に個人がある、自然の前に個人がある。
だから自分勝手で、自己中で、社会科学が発達し、フランス革命や、
ルソーの『社会契約論』が誕生したのかもしれない。


フランスは自由な国

事故っても自己責任。成功しても自己責任。
でも、限られた自由。
アメリカのように途方もない自由ではない。自由競争でもない。
Amazonの送料無料は小さな書店が潰れるから違法とする政府である。
広大な国土を持つ途方もない自由のあるアメリカよりも
フランスのこじんまりした自由の方が日本人にはなじみやすい。


フランスはテキトーな国

コンビニがない。
日曜日には店は閉まる。
列車は遅れる。
接客はテキトー。
サービスの質は日本の方が高い。
すべて70点ぐらいでよしとしている。
みんながちょっとずつ手を抜いて、
みんながちょっとずつこんなもんだと受け容れてる。
手を抜いた自分の時間にあてて人生を楽しんでいる。
そんな気楽さがとてもいい。














いろいろと小難しいことを書いたが、

フランスとは、フランスパンをじかに持つ国である。
フランスパンを片手に町を歩けば、あなたもすぐにフランス人だ。

フランスは決して美しくなく、ゴミが多くて、移民が多くて、治安が悪く、
フランス人は冷たくて、自己中で、自分の国をいちばんと思っている鼻の高い奴らと、
当のフランス人から聞いていて、好きになれないだろうと思っていたけど、
行ったらとても好きになってしまった。

また、フランスに行きたいなあ、パリとマルセイユは絶対に。

帰路


タクシーに乗って空港へ向かう。
最後まで撮りまくってやれと、タクシーの車窓からカメラを出す。
ゴミ箱をあさっていたおっさんの戦利品は、キーボードと皮のベルト。(Clingnan Cour)

市街地は飛行機に乗り遅れるんじゃないかと不安になるほど
大渋滞していたが高速に乗るとすいすい進む。

空港にアクセスする高速道路からの風景。
クアラルンプールから空港に向かうときにそっくりだ。
空港周辺というのは、無機的で、新しいようで古く、
企業の看板がかかっている。どこの国でも似ている。



窓ガラスが割れてしまったからか、雑誌でふさいている。
バタバタとうるさい。





空港にはちょうどよい時間に到着し、機内に乗り込む。12時間半のフライト。
寝てる人 in  ヤクーツク上空



大阪空港から家へのバスの中、パリの余韻に浸っていたけど、
これで一気に目が覚めた。

ただいま、大阪。

最後の挨拶

最後の大事な儀式を行う。
昨年亡くなった母の骨をセーヌ川に流す。
パリに行きたいといって行けなかった母、結局外国自体に行けなかった母。
いつかは連れて行こうと思っていたのに、逝ってしまった。
この旅は母親との二人旅、というと大げさか。



ペールラシューズ墓地へ。



エディット・ピアフの墓参り。
母はピアフが好きだった。
シャンソンが好きで、レッスンに行き、家でもよく歌っていた。
歌は確かに上手かった。フランスにとても行きたがっていた。

「母親の骨を撒いていいですか?」
「もちろん、さあむこうで一緒に歌いましょう」

とピアフも言ってくれていたので。墓の手前の花壇に母の骨を撒く。


最後はプルーストにさようなら。
花とか忘れちゃったよ、マルセル。
今度くるときはいろいろ持って来るからね。 (Pere-Lachaise)

モネの眼

オランジェリー美術館へやってきた。
目当てはこれ「Les Nympheas」 モネの「睡蓮」

中で写真撮影禁止だったので、以下はネットから拾った写真を使用。


楕円形の部屋の4面に睡蓮の絵が飾ってある。
その部屋が2つある。




睡蓮の絵がぐるりと囲んでいる。





ストレスの多いパリ市民がリラックスできるようにとのモネの思いから作られた。
ずっと見ていると確かに気持ちが穏やかになる。

睡蓮が浮かんだ池のそばを散歩しているような気になる。
照明が自然光だけなのがまたよい。



モネは白内障を患い、晩年はほとんど眼が見えなかった。
なので晩年は、抽象的な表現が多いという。

イスラム細密画師が主人公の小説、オルハン・パムクの『私の名は赤』を思い出した。

盲目は怖れるにあたらず、それは生涯を神の美に捧げた細密画師に、神が最後に与える幸福なのだそうな。細密画とは神が世界をどのようにご覧になられるかを探求することである、よってその比類ない情景はただ、厳しい切磋琢磨によって目を酷使し、身も心もすり切れた末に辿り着く盲目の果てにこそ想起されるものなのだ。つまり、神がご覧になる世界は、唯一、めしいた細密画師の記憶からのみ窺えるというのです。だから絵師は生涯にわたって絵に手を慣らしておかなければなりません。年老いてその境地へ至ったとき—すなわち盲目と記憶の中で、眼前に神の情景が現れたとき手が1人でに神々しいその絵を描けるように。

ヘラートやシラーズの名人絵師にあっては、画業に専心し、その生涯の終りに光を失うことは、その絵師の絶えざる研鑽の結果であるのみならず、その偉大な名人の努力と技に対して神がお贈りになった恩寵とも見なされ、祝福された。  



中には自分で目に針をさして失明した絵師もいた。
それほどみんな神のビジョンを見たかったのだ。
時代も宗教違えど、モネも神の恩寵を受け、
神のヴィジョンを見た画家であったと作品を見て思う。 (Tuileries)

隙あるルーブル美術館

パリ最後の日はルーブル美術館へ。
飛行機は夜の9時発。まだまだ時間はある。
ルーブル美術館はまだ行っていなかった。
心の底から行きたかったかというと微妙であるが、こういうとき精神貧乏性が働く。
パリまで来たのに名所に行ってないのはもったいない、という損得勘定。
パリに1週間近くいてベルサイユ宮殿にもまだ行っていないのだが、
この旅では行けそうもない。 (Louvre)




ルーブル美術館は混んでいる。
だから来るのを渋っていた。


親が列に並んでいるのをいいことに余裕の子供たち。






朝早く行ったので30分待ちでなんとか入場できた。
とはいえあまり時間がない。
丁寧に見ていくと1日はかかるだろう美術館を早歩きで。
とくに目のついたのがギリシア彫刻。みんな包茎である。

ローマ時代に入っても同じく包茎だ。


これだけ彫刻があれば絶対に1人はむけていたはずである。
それがここまで包茎だらけと何か裏があると考えざるを得ない。
ぼくは仮説を立てた。ギリシア・ローマ時代は包茎の方が価値があったのではないかと。





ルーブル美術館の中国語ガイドのおばちゃんと局部をともに撮ってみた。

話を「美」に戻そう。お目当てにやってきた。



ミロのヴィーナスである。
本物である。確かに美しいと思った。
この体の傾きがえもいわれない。
まっすぐ立ったものが多い中、
体をあえて傾けて作った人はなかなかやる。




左右後ろから見たミロのヴィーナス。
今まで見たことのなかった新鮮なアングルである。

ギリシャ彫刻はおもしろかった。
本当に人間そっくりで、こんな高い技術は数千年前にあったのだ。
絵よりも先に彫刻でそれがあった。
人間に似せるという行為は2Dよりも3Dでまず発達したのだ。


もうの1つ目玉、モナリザである。



アイドルの握手会のように大混雑している。




ようやくぼくの握手の番が回ってきた。
歴史的作品との距離3m。
人をすべて包み込むような顔。
笑っているのか、怒っているのか、
美しいけど、どこか怖くて、優しくて、
すべての感情がそこにあるような表情である。
背景は森と湖なのか、服の色が地味、使っている色数は少ないなど、
実物を前にして改めて気づく。

とはいえこの絵の予備知識がまったくなくてどこか名もない美術館に飾っていたら
ぼくは世紀の名作と思えたのだろうか。
絵でいうなら、ゴッホの方がよかったし、美術作品ということだったら、
ジェームズ・タレルの方がはるかに感動したし、うーん、
名作ってなんなんだろう。



ぼくの目の前をふと少女が入ってきた。
何だよ横入りしやがってと思いきや、ここは優先して見られる場所。
少女は盲目なのだ。


少女が泣いているように見えた。
モナリザそのものより、モナリザを見て盲目の少女が感動しているということに
感動してしまった。少女は一体、どのようにモナリザを感じたのだろう。




それでは、ルーブル美術館の隙を。
ガイドの説明をだらだら聴く子どもたち。


天井画を撮る子供たち。
きっと遠足でルーブル美術館に来てるんだろう。なんてうらやましい遠足。

二人でゲームをしているわけではなく、
DSがルーブル美術家のガイドになっているのである。
DSが世界の一流の場所で使われていて、日本人としてちょっぴり誇らしい。



絶対絶命にも程がある。




作品鑑賞に疲れ果てた人。とてもスティングに似ていた。

というわけで、ルーブル美術館の作品よりも、
ルーブル美術館に来ている人の方が気になって仕方がない病的な自分。